【おべんたう】20131212〜母親とは・・・〜
本日のおべんたう。
- 根菜混ぜご飯。
- 長いもと魚肉ソーセージの竜田揚げ。
- 人参ナッツ和え。
- 豚生姜焼きピーマン添え。
- こんにゃく入り卵焼き。
- りんご。
母親考。
母親というものは、
「的外れな愛情」と「思い込み」を押し付ける厄介な生き物。
対外的には母親に該当する自分も、それに当てはまっているのかと考えるとゾッとする。
母親の愛は海より広く深く山より高い、、、
ありがたいを通り越して時にありがた迷惑なのは。
わたしが鼻を擤もうとして箱ティッシュに向けて手を伸ばしていると、
そこに“りんご”が渡されることだったりする。
いずれは食べるが、いまじゃない。
自分の頭の中で計画して、とった段取り通り動いている途中で。
思いも寄らぬ助け舟??が入ると逆にペースが乱れてアップアップする。
いま欲しいのはそれじゃない、いま求めているのはそこじゃない。
台所で汲んで仏間に持って行こうと置いておいた仏さんの水を、
ちょうど台所でスピードが緩むようにして突進した途中で。
給水所思しく手渡しされると急には止まれず無駄な力を使うほかに、
へたすればそこに水をこぼして居間の絨毯をびしょびしょにしかねない。
それをして待ち構えているなら温めが終わった弁当のご飯に蓋を閉めていてほしい・・・云々。
今朝のように道路まで白く雪が覆うような朝は、
しかも今季、初の根雪となった朝は。
一分一秒を争うようにして気忙しく動き回っているので、
その流れを止めるような行動は・・・。
しかも先方が我らの身やらを案じて口やら手やら出してくれることだから、
むげにもできず。
ただ口を半開きにして、あわあわするのでいっぱいになってしまう。
年々歳々、齢とともに心配症になっていくとは聞くけれども。
くしゃみ一つ咳一つしても風邪か、なにかどうしたのかと問いただされるので。
お嬢と自分は、それらすら隠れてする気の使いよう。
心配は、ありがたいことなれど。
ちょっと放っておいてはくれないだろうか、と。
思春期に少年から大人に変わる頃のように、
せめて見えないところ聞こえない場所でうるせーんだよクソバryと、ぶつぶつ言うのが関の山。
あてがいぶちで飲まされている、ビタミン剤とアレルギー薬のシートは。
2週間分くらいあるもので、
それを1日1個ずつ服用させられているものの。
4日や5日ではシートの半分も飲み終わらず、のこりを卓上に放置しておいたら。
「あんた薬飲んでないんだべ」
って言い切るから呆れる。
それや5日に1日くらいは忘れることもあるかもしれないけど困ることも無いし。
基本的に飲んでいるから減っているものを、まだ半分以上残っているといって。
飲んでないと決めつけるのは、いかがなものかと。
「この頃薬飲んでないんだか?」「飲んでるんだか?」
と聞かれたところで、それも鬱陶しいかもしれないけどまだ言い切られるよりかはマシ。
ていうか渡したら、あとは自己責任で飲むも飲まないも自分の勝手にさせてもらいたい。
物申すと老いを弱さという武器に代えて、しょんぼりと落ち込まれるのもまた面倒くさい。
時間と労力と、お金と神経を我が子のため。
あんたのために、これだけ割いて心を砕いてる。
なのに、どうしてお前はそれを理解して受け留めないのかと。
母親の正論を振りかざしてこられると頭を下げるしかないのも腹立たしい。
わかってる、
わかっちゃいるけど、
いちいちそんなこと明るみにしないでおくれよかあさん。
しかしながら、
これがまさしく母親たるものだとすれば自分は母親失格だな。
きっと難破船に2人乗っていたら我が身を呈してでも母親は子どもを守る、というだろう。
自分は・・・自分はきっと我が身を救うことを考えると思う。
あとは寿命だ・・・すまんが自分の身は自分で守ってくれと。
嬢には、そう言うような気がする。
嬢は、うんわかってると言ってくれそうな気がする(願望)。
今朝の車中で、
母親らしくないもんね(笑)面倒くさくなくていいけどね、と笑われたのがせめてもの救いか。
面倒で鬱陶しくて、それでもありがたいのが母親かな。
といっても、やっぱりちょっと煩わしい。
そう思えるのが存在している、ということなんだろうけど。