【つれづれ】今日のパンと娘と友だち。
物思う秋。
お嬢のことを娘と表するのは珍しいな。
普段は我が子を子どもとも思っていないのだけれど、
よそのお宅の話を聞いたりした時はやはり意識する。
子どもを文句なしに可愛いと思ったことはないし、
だからといって憎いと思ったこともないし。
生まれてきてくれてありがとう、などと言ったこともなければ。
生んでくれてありがとう、とも言われたこともない。
そういうんじゃないと思っているから、
そういう美談めいたことで片付けられないのが親子だと思うから。
無事に生まれてくれたことが最上の幸いで、
それをベースに考えると。
それ以上の要求というか、なんだ?期待めいたもの??
そういうのは我が子だからこそ、あんまり期待できないなと。
(自分たちの子どもだから、さほど大した者にはならないだろうという意味。)
子どもに期待を寄せている親御さんは自分たちに相応の自信があるんだろう・・・
(自分たちの子だから、もっとずっといろいろあれこれできるはずだっていう意味。)
このところ割と頻繁に娘は友だちに泣かれているようだ。
聞けば泣きたくなるような話で、もっともなことで。
聞いている娘はおろか、わたしまで泣きたくなってくる。
なんで、そんなにわかり合えないもんなんだろうか。
この場合、自分がものすごく理解のある親だということではなくて。
子どもを通過してきた大人として、
ひとり人間としての眼で見たら。
そんなにそんなに若い世代に要求はできないと思うから、
これくらいだったよなぁと自分のその齢ごろを振り返って。
だから年号が平成に変わろうが文明の利器が、どんなに発達しようが。
今も昔も変わらない根本みたいなものが、あるから。
あまり多大な要求はできないし、それくらいだよなと思うと。
怒る気にならない。
最低限、人としてとか社会に出る準備段階として。
これはこうすべきと思う、という基準で叱ることはあっても。
ほとんど怒りはない、
それは娘が他所様から見ればことのほか素直で育てやすそうな女の子だということらしいけど。
日常を見ていると、ただグダグダな人なんですけど。
でも両親とも同様にグダグダなんだから仕様だよね。
そんな風に真っ直ぐに育てようと懸命だったわけじゃなく、
よく食べさせて寝かせて話を多くしてきたらそうなった。秘訣も何にもない。
たぶん元々の持って生まれた性分に環境で鷹揚な子ができたんだと思う。
同様に育てたら同じくなるかといったら元が違って親が違うし育ちも違うから一概にはいえまい。
娘の友だちのお宅の話は、そこここの事情もあるのだろうし書けはしない。
話を聞いている娘も、どうにかできるようなものなら何とかしたいと衝動に駆られるらしいけれど。
どうしようもない、とも知っている。
ただ話したければ話して、わたしでよければ泣きたければ泣いていいよと。
そう伝えるのが関の山だろう、それに。
答えを求めているわけじゃない、ただ。
吐き出したい、その不安定な心中を。
せめて言葉や涙に出すことで一瞬でも拭いたいのだろう、っていうこと。
聞いた話を車中や家で、わたしに聞かせて娘も流しているんだろう。
なすすべはないが、
わたしは金曜の朝に娘と同じようにパンデーを楽しみにしている友だちに。
「がんばれ」の、ひと言と。
ゆるい絵を描いた貼りっこメモを添えて、ひと切れずつ包んだパンを。
これを彼女に、と。
そんなことくらいしかできないけど。
応援しているよ。
無事に2人が共に卒業できる日を、
わたしは陰ながら見守ってる。