家意識。
名前を2つ持ってます。
いわゆる芸名、花柳仲登嗣(はなやぎなかとし)という名前を本名と別に持ってます。
名前が2つになってから28年になります。
いつしか本名で呼ばれるより芸名で呼ばれることの方が多くなりました。
我が家の苗字は比較的、珍しいほうに属されると思います。
そんな苗字であっても時折、呼び掛けられて咄嗟に返事ができないことがあります。
返事ができないというか自分のことを呼ばれていると思わない時がある。
それだけ芸名の生活が定着した、ていうことですね。
しかも我が家、3人共がそれぞれに名前を2つずつ持っておるのよね。
それが、わたしの“家意識の希薄さ”にどんな影響を及ぼしているのか。
よくわかりませんけど。
自分は、どうやら家意識に薄いというか住居というものに拘りがないのだな。
ということを昨日の左官屋さんの仕事ぶりに関して、ちょっと感じたのでした。
左官屋さんと思っていたけど実はペンキ屋さん。
家の風除を出たコンクリが地震の影響でひび割れていたところに除雪作業で剥がれた部位が出て。
そこから被害が拡大していきそうだったので、先に壁を塗ってくれたペンキ屋さんに相談すると。
この程度なら自分(ペンキ屋さん)と助手で、なんとか補修できると。
言ってくださったとかで安価にお願いできることになりました。
わたしはてっきり左官屋さんの助手をペンキ屋さんが、するのだと思っていたら。
まだ発展途上の左官屋の若い人が連れてこられたらしい。
亀裂の入っている上側を、カンカントントンと気長な感じで剥がしてから。
予算も限られていたので、ベラッとコンクリが塗られ作業は終了しました。
それまでの格子状の玄関前と比べると、さすがに安っぽい感じにはなったのですが。
提示した予算も予算だったので、この程度で納得せざるを得ない。
と思っていたところ、
ボスは事以上にションボリしてしまっていました。
塗り方が下手とか、コンクリの色が白っぽいとか。
でも予算は限られていたのよねぇ・・・。
少なくとも亀裂が入ったままで先立つものの貯まるのを待つより。
(だいたい貯まる見込みがあるのかどうかも謎)
応急処置でも補修されたらよくない??
朝起きて乾いたところを外から見てみると、
たしかに今までの趣きとはちょっと違ってしまったけど。
別に誰がしみじみと我が家のコンクリの様子を見るでもなく、
ていうか見てどう思っても別によくないすか。
家は好きだが拘りはない。
確かに我が家は自分にとって落ち着け、くつろげる場所です。
帰ってくる場所だとも思っているけど・・・。
この場所で、この家でなくちゃいけないっていう気持ちは。
自分には、ほとんどないなって思う。
逆に、どこでも自分は暮らしていけると思ってるし。
ここが終の住処じゃないかもしれないな、と心のどこかで思ってる。
別に家を出たいとか考えているわけじゃないんですが、
この家を守るとか継ぐとかいう意識には本当に薄くて。
それでボスと一年内に大げんかしたような気もして、
それが面倒で禁忌になっている話題であるんですが。
生きていくには、とりあえずどこでもいいよ。
命あるだけ生きて死ぬときは(たとえ誰かに看取られても)ひとりだしなぁ、とか。
あまり好きではない言葉。
ことあるごとに「こだわりがある」と使ってしまう拘りですが。
本来あまり、よい意味ではないというのは。
拘束なんて言葉もあるからでしょうか。
似たような意味合いで「絆」も。
語源は「犬や馬など動物を繋ぎとめておく綱のこと」と、いわれています。
今は震災のこともあって、この言葉が強く結びつくの意味で使われているけれど。
自分個人のことでは、この言葉すこし重たい意味に感じます。
どちらも捕われるというニュアンスが自由でない意味につながりそうで。
もっと楽に生きたいです。
べつに住むところなんて、どこでもいいし。
暮らせれば家の状態なんて、さほど気にならないし。
最低限、片付いていればそれでいいかな。
そして夕ご飯。
衣食住への重きの置きようは、
- 食
- 衣
- 住
の順位ですかねぇ、、、といっても。
この順にお金をかけるって意味では決してありません。
何はなくとも我が家のご飯って出掛けて戻った時に、よく言ったりするけど。
家族が元気で仲よく暮らせれば、その場所はどこでもそこが我が家かなって。
思うし、もし自分がひとりになったら。
自分がいる場所が自分の居場所だって思うような気がしてます。